社長になって最初の仕事は、父の工務店開業宣言によって、離れていった得意先を取り戻すことでした。初めはまともに相手になってくれなかった得意先も、何度も何度も足を運ぶうちに、クレームが出たらすぐにやめてもらう、という条件付きで、半分くらいが再び仕事を発注してくれるようになりました。
“いくら若くても、熱意をもって本気でぶつかったら、人はわかってくれるんや”。
そう学んだことは、私にとって大きな収穫であり、大いに勇気を与えてくれました。
しかし当時会社に残っていたのは、私と1つ年上の見習いさんの2人だけ。雨どいの交換くらいしかできません。人の伝手を頼って、やっとのことで板金職人を探し当て、その人に教えてもらいながら仕事をこなしていきました。今から思えば綱渡りのようで、よく無事に渡ってこられたな、と思いますが、必死だった当時はさほど大変だと感じなかったのですから、人間ってうまくできているなあと思います。
板金屋の仕事は”屋根を雨漏りさせないよう、きれいに仕上げること”。ただそれだけです。
でも、それだけのことがとても難しいんです。祖父がよく「どんな雨漏りでも止められるようになったら板金職人として一人前や」と口ぐせのように言っていましたが、自分が職人になってみて、初めてその意味がわかりました。
人を使う社長の立場としては、自分が早く技術を身につけないと話になりません。それこそ鼻血が出るほど一生懸命勉強しました。
道を歩いていて、いい仕上がりだなあと思う家があると、お願いして屋根の仕上げ方を見せてもらうこともよくやりました。全然知らない家の呼び鈴を押して、わけを話して上がらせていただくんです。結構みなさん快く、家に上がらせてくださいましたよ。この時に協力してくださった方々には、いまも本当に感謝しています。
そうやって3年が過ぎた頃、父が工務店をする時に森建築板金工業を去った阪本のおっちゃんが戻ってきてくれました。祖父と一緒に修業をしたベテラン中のベテランです。嬉しかったです。19歳の新人・西田君も入社し、少しずついまの森建築板金工業の基ができあがっていきました。
社長になって最初の仕事は、父の工務店開業宣言によって、離れていった得意先を取り戻すことでした。初めはまともに相手になってくれなかった得意先も、何度も何度も足を運ぶうちに、クレームが出たらすぐにやめてもらう、という条件付きで、半分くらいが再び仕事を発注してくれるようになりました。
“いくら若くても、熱意をもって本気でぶつかったら、人はわかってくれるんや”。
そう学んだことは、私にとって大きな収穫であり、大いに勇気を与えてくれました。
しかし当時会社に残っていたのは、私と1つ年上の見習いさんの2人だけ。雨どいの交換くらいしかできません。人の伝手を頼って、やっとのことで板金職人を探し当て、その人に教えてもらいながら仕事をこなしていきました。今から思えば綱渡りのようで、よく無事に渡ってこられたな、と思いますが、必死だった当時はさほど大変だと感じなかったのですから、人間ってうまくできているなあと思います。
板金屋の仕事は”屋根を雨漏りさせないよう、きれいに仕上げること”。ただそれだけです。
でも、それだけのことがとても難しいんです。祖父がよく「どんな雨漏りでも止められるようになったら板金職人として一人前や」と口ぐせのように言っていましたが、自分が職人になってみて、初めてその意味がわかりました。
人を使う社長の立場としては、自分が早く技術を身につけないと話になりません。それこそ鼻血が出るほど一生懸命勉強しました。
道を歩いていて、いい仕上がりだなあと思う家があると、お願いして屋根の仕上げ方を見せてもらうこともよくやりました。全然知らない家の呼び鈴を押して、わけを話して上がらせていただくんです。結構みなさん快く、家に上がらせてくださいましたよ。この時に協力してくださった方々には、いまも本当に感謝しています。
そうやって3年が過ぎた頃、父が工務店をする時に森建築板金工業を去った阪本のおっちゃんが戻ってきてくれました。祖父と一緒に修業をしたベテラン中のベテランです。嬉しかったです。19歳の新人・西田君も入社し、少しずついまの森建築板金工業の基ができあがっていきました。